祖母が他界した話/祖母からの手紙
母方の祖母が亡くなった。
腰が曲がり、ヨボヨボではあったものの、特段悪いところもなく
ある日、突然のくも膜下出血
その後は、あっという間だった。
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青春時代は、戦争真っ只中
「アメリカは敵」だった時代から、外国語に密かに憧れを抱き、世界中を旅することを夢見た祖母
そして、真逆のタイプの母親から、この娘
親の心配もよそに、次から次へと、単身よくわからん国へ行く。
「本当に心配だから、もういい加減大人しくして」
そんな親心も虚しく響いた。
いつの日か諦めた母は、「二代後になって、おばあちゃんの夢が叶った」のだと、ため息まじりに苦笑いをした。
ドイツのノイシュバンシュタイン城のカレンダーは、祖父母の家のトイレに今も飾ってある
登山に畑に絵画にお花。水泳なんかもやっていた気がする。
祖父が存命で元気な頃は、夫婦揃って海外旅行
幼い頃の自分には、そんな祖父母が眩しく見えたものだ。
「これが外国のお金だよ」と、持ち帰った1セントコインを小さな手のひらにのせてもらったのを、今も覚えている。
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そんな祖母は、私が幼稚園に上がった頃から社会人になった後も、転勤先まで葉書をくれた。
小学校低学年の頃まではひらがなの大きな文字で、高学年になる頃には、徐々に漢字を混ぜた大人向けの文章へ移り変わっていった。
母曰く、田舎の農家出身の祖母にとって、葉書を送ることには特別な思い入れがあったのだと。
祖母からの手紙と絵葉書の数々
十数年前、私の就職が決まり、来春には実家を出るという冬の、祖母からの手紙を見つけた。
そこには、新たな門出を祝う文章とともに、祖母の人生が綴られていた。
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私は昭和二十七年の二月、主人と見合いの為、旭川へ出ました。
そして四月結婚式
◯◯(私の母)に、お母さん大した度胸だね‥と言われました。
私は、どんな人生が待ち受けていても、きっと、素晴らしい人生にしようと思っていました。
五十数年、主人は大きな大きな人でした。
幸せでした。
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しなやかで強い心と体を持ち、天寿を全うした祖母。
その人生は決して真っ直ぐなものではなく、数々の思いを飲み込んできたことだろう。
孫娘たちの手によって施された最期のお化粧はとても美しく、まるで穏やかに眠っているようだった。
たとえ肉体がこの世からなくなっても、遠い海の向こうへの憧れの心や、彼女が生きた証は、ここに確かに受け継がれている。