地球のどこかで会いましょう

旅について感じたまま綴ります。普通の人はまぁ行かないようなところに行ったりします。踏んだことない土を一つでも多く踏んで死にたい。通算40ヵ国くらい。サラリーマンは副業です。

祖母が他界した話/祖母からの手紙

母方の祖母が亡くなった。

腰が曲がり、ヨボヨボではあったものの、特段悪いところもなく 

ある日、突然のくも膜下出血

その後は、あっという間だった。 

〜〜〜〜~~~~~~~~~~~~~~~~

 青春時代は、戦争真っ只中

アメリカは敵」だった時代から、外国語に密かに憧れを抱き、世界中を旅することを夢見た祖母 

そして、真逆のタイプの母親から、この娘

親の心配もよそに、次から次へと、単身よくわからん国へ行く。

「本当に心配だから、もういい加減大人しくして」

そんな親心も虚しく響いた。

 

いつの日か諦めた母は、「二代後になって、おばあちゃんの夢が叶った」のだと、ため息まじりに苦笑いをした。

 

f:id:sana_tabi:20210825203354j:plainドイツのノイシュバンシュタイン城のカレンダーは、祖父母の家のトイレに今も飾ってある

  

登山に畑に絵画にお花。水泳なんかもやっていた気がする。

祖父が存命で元気な頃は、夫婦揃って海外旅行

幼い頃の自分には、そんな祖父母が眩しく見えたものだ。

「これが外国のお金だよ」と、持ち帰った1セントコインを小さな手のひらにのせてもらったのを、今も覚えている。 

〜〜〜〜~~~~~~~~~~~~~~~~

そんな祖母は、私が幼稚園に上がった頃から社会人になった後も、転勤先まで葉書をくれた。

小学校低学年の頃まではひらがなの大きな文字で、高学年になる頃には、徐々に漢字を混ぜた大人向けの文章へ移り変わっていった。

 母曰く、田舎の農家出身の祖母にとって、葉書を送ることには特別な思い入れがあったのだと。

 

f:id:sana_tabi:20210825203351j:plain祖母からの手紙と絵葉書の数々

 

十数年前、私の就職が決まり、来春には実家を出るという冬の、祖母からの手紙を見つけた。

そこには、新たな門出を祝う文章とともに、祖母の人生が綴られていた。 

〜〜〜〜~~~~~~~~~~~~~~~~ 

私は昭和二十七年の二月、主人と見合いの為、旭川へ出ました。

そして四月結婚式

◯◯(私の母)に、お母さん大した度胸だね‥と言われました。

 

私は、どんな人生が待ち受けていても、きっと、素晴らしい人生にしようと思っていました。

五十数年、主人は大きな大きな人でした。

幸せでした。

 〜〜〜〜~~~~~~~~~~~~~~~~

しなやかで強い心と体を持ち、天寿を全うした祖母。

その人生は決して真っ直ぐなものではなく、数々の思いを飲み込んできたことだろう。

孫娘たちの手によって施された最期のお化粧はとても美しく、まるで穏やかに眠っているようだった。

 

たとえ肉体がこの世からなくなっても、遠い海の向こうへの憧れの心や、彼女が生きた証は、ここに確かに受け継がれている。